アカデミクスを推薦します

タイトルアカデミクスを推薦します

推薦者1

新たな学びの地平を切り拓く

北海学園大学経営学研究科/経営学部 教授 佐藤 大輔 氏 

アカデミクスが採用する「マネジメント」的な教育

 勉強や仕事など、人に何らかの行為を促そうとするときの方法には、2つの選択肢があります。1つは、やらせたいことを目標として与え、その達成のために合理的な方法を提供するという「管理」。もう1つは、目標を与えてしまうのではなく、当事者自身がやりたいこととして、自らそれに取り組むように仕組む「マネジメント」です。

 “やらなければならないこと” としてとにかくやらせる管理に対して、マネジメントは “やりたいこと” として当事者に納得させた上で、自分からやるように仕向けます。

 管理の下では、人は受動的にしか行動しませんが、すぐに目に見える行動を起こさせることができます。一方で、マネジメントの下では、人は能動的に行動しようとしますが、目には見えない当事者の意図そのものを変えていく難易度の高い工夫が必要です。

 どんな学校も予備校も、ふつうは管理的な教育方法を採用します。それは、管理的な方法がとりあえず短期的に成果を上げるのに効果的なだけでなく、教師の個人的な素質や適正をあまり問わない汎用的な方法だからです。

 しかし、そのような教育の下では、生徒は能動的に何かに取り組むようにはなりませんし、その結果として驚くような高い成果を出すことも叶いません。

 一方で、アカデミクスの教育はこのような大勢とは異なり、一貫してマネジメント的な方法を志向します。そして、それによって言われて “やらされる” のではなく “自らやる” ように促し、その結果、管理的な方法では至ることが難しいレベルの高い成果を出せるように人を変えていこうとします。

 つまり、単に結果としての成績を変えようとするだけでなく、その根本的な背景である当事者(生徒)の意図を含む、人そのものに影響を与えようとします。アカデミクスが目指す「人間力」の向上とは、マネジメント的な環境の中で、人々の能動的な姿勢や創造性を育むことを指しているのです。

 このようなマネジメント的な教育を実現するために、アカデミクスはいわゆる勉強とは異なる研究を生徒に促します。ここでいう研究とは、自ら問題を発見し、それに対する仮説(原因・理由)を探求し、具体的な解決策を生み出して行動するという一連の取り組みです。

 一般的に正しい答え(勉強方法)を与えてしまうのではなく、生徒自身が自律的に解決策を試行錯誤する研究につきあう対等な伴走者として教師が振る舞うやり方は、コスト(手間や労力、時間)がかかるだけでなく、ある種のコツも必要とされる非常に高度なものです。

 残念ながらこのような教育に携われる人材は多くありませんが、そのような少数精鋭の専門職(プロフェッショナル)集団であることこそがアカデミクスの強みといえるのです。

なぜ「マネジメント」的アプローチなのか

 管理的な教育では、合理的・効率的な手段(勉強方法)を生徒に与えようとしますが、この方法にはいくつかの限界があります。

 まず、そもそも他者に与えられた方法に依存するやり方は、納得してやっていない(“やりたいこと”としてやっていない)ので、それを与えてくれる他者(先生や学校、予備校など)の管理がないところではがんばりにくい、つまり生徒はどうしてもサボってしまう傾向にあります。

 管理の下でだけがんばれる受動的な人と、管理がないところでも躍起になってがんばる能動的な人の差は当然ながら小さくありません。これは単に能動性が勉強量に影響するというだけのことではなく、それが勉強するときの集中力や勉強に向かう姿勢(のめり込み具合)、さらには勉強する中で即興的に効果的な方法を生み出すという、勉強の質にも大きく影響するからです。当然ながら、嫌々勉強している人は、楽しんで勉強する人には敵わないということなのです。

 また、他者(教師)が与えようとする合理的な勉強方法は、多くの成功者(合格者)や教師自身の経験を外から/後から見て導かれたものであり、いわば結果論です。しかもその方法は無数にあり、場合によっては一見対立するような提案も少なくありません(例えば、英単語を語呂で覚えるやり方とそうでないやり方、長文を速読するやり方と熟読するやり方はどちらが正しいのでしょうか)。

 合理的な勉強方法が作られる際、成功者や教師自身が当事者として勉強に取り組んでいたときに、どういう状況や文脈、意図でそれに向き合っていたのかは一般化できませんから、無視・削除されます。

 しかし、いかに合理的な勉強方法があったとしても、そもそもそれをやっていた人と同様に自分の勉強の流れに組み込むことができなければ、結局その方法は役に立ちません。重要なのは、合理的な勉強方法そのものが提供されるということより、その勉強方法が自分の視点から見てどう有意義なのかを判断した上で選択し、自分の勉強の流れの中にどう組み込めるか、です。

 結局、合理的なやり方は無数にあるわけで、その中からどれを自分の勉強に組み込むかを取捨選択することが現実的には重要です。そして、そのパターンは生徒ごとに千差万別なため、マネジメントの下で生徒自身が自分で自分の勉強方法を考え、教師は伴走者として対等な立場からそれを一緒に考えていく必要があるのです。

次世代リーダーの育成を見据えた教育

 やりたいこととして納得した上で、生徒が自ら能動的に勉強に取り組めるようになること。そして、生徒それぞれが自分にあったオリジナルの勉強方法をつくり出せるようになること。これらのために、アカデミクスが取り組む教育の形は一般的ではありませんが、むしろ画期的です。

 アカデミクスは双方向的でリッチなコミュニケーションが可能な生(“LIVE”)の授業に徹底してこだわりますし、教師と生徒が密接に関わり合いながら、いちいち生徒ごとにオリジナルの学びを作り出していくことに執着します。

 教師は自分のやり方や一般的なやり方を一方的に教えるのではなく、教えようとしながら生徒とともに新しい学び方を作りだし、その度に教師自身が学んでもいきます。そして、このような学びの中で生徒が得る知見は、もはや単に受験勉強を成功裏に進めることだけに役立つものではありません。

マネジメントの下で、自律的に研究を進めるというスタイルでの学びを知ることは、例えば将来社会人として仕事に取り組む上で、生き生きと能動的に行動し優れた成果を手に入れるための基本的な知見を得ることにもなります。

 結果として、アカデミクスの教育は単に高い成績を持ち、受験を突破できる生徒を育てるというだけのことではなく、どのような課題に対してもコミュニケーションの中からクリエイティブなアイディアに基づく解決策を生み出し、それを自ら行動に起こしていくことで問題を積極的に解決していくことのできる優れた人材や次世代リーダーを育てるということにもつながるのです。

 かつて有名な経営学者であるドラッカーは、次の時代には知識社会が来るとし、そこでは「教育ある者」が主役になるのだと宣言しました。そしてまさに知識社会となった現代においては、創造性を持った人々こそが「教育ある者」として求められています。

 創造性を持つ人は、自らの視点に基づいてオリジナルのアイディアを生み出しますし、そのアイディアは自分自身のやりたいこととして主体的・能動的に行動として具体化されます。「教育ある者」とは、自らの研究的な取り組みの中で社会を変えていくアイディアを創出し、それを能動的に行動で実現していく人なのです。

 ところが我が国の教育の現状では、このような創造性を育む仕組みや機会は残念ながらかなり限定的です。大学や企業での学びですらも、かなりの部分において管理的に進められてしまうのが現実だと言わざるを得ません。

 このような状況の中で、アカデミクスが実現しようとする教育の形は、まさに我が国における教育の未来を切り拓くものだといえるのです。

北海学園大学 大学院経営学研究科/経営学部 教授 佐藤 大輔


推薦者2

アカデミクスは、 ズバリ「問題解決型」予備校です!

法科大学院 教授 久須本 かおり 氏 

 就職して社会人になった大学の卒業生達が、口をそろえていうのは次の台詞です。「大学生の時、もっとちゃんと勉強しておけばよかった・・・」。

 大学ではそれなりに勉強してきたはずなのに、なぜこんな後悔をすることになるのか。

 恐らく、大学での学修を通じてどのような能力を磨くべきかを意識しないまま、何となく大学生生活を送ってしまったため、社会人になって初めて、社会人として必要とされる能力が十分に身についていないことを痛感したからではないかと思います。

 社会人になると、どの教科書にも載っていない大小様々な問題を、自分の力で解決していかなければなりません。

 この「問題解決能力」は、読解力、論理的思考能力、創造力、文章力、プレゼンテーション能力、バランス感覚などから構成されている総合力であって、就職活動の面接で企業側が最も重視するのが、この能力がどれほど備わっているかという点です。

 この能力を身につけるためには一定の訓練が必要であり、その訓練の場が大学なのです。

 文系・理系、どの学部に進学しても、扱う素材が違うだけで(例えば法学部であれば法律問題を、経済学部であれば経済問題を素材にします)、結局養うべき能力はこの「問題解決能力」であり、専門演習やゼミナールと呼ばれる、少人数で特定の問題について研究して発表したり、議論をしたりする授業において、そうした能力の訓練が行われます。

 もっとも、「問題解決能力」を養う実践的な訓練を受けるためには、その前提として幅広い基礎知識を身につけている必要があります。だからこそ、どの大学でも、自分の所属する学部とは直接関係のない内容の科目を「教養科目」として履修しなければならないカリキュラムになっています。

 そして、高校までの学習内容も、大学の「教養科目」と同様、「問題解決能力」を養うために必要な基礎知識として、大学入学までに身につけておくことが要求されているのです。

 したがって、高校までの学習は大学受験のためだけに必要な勉強であって、将来何の役にも立たないという考え方はおかしいと思います。大学で行う「問題解決能力」を養う訓練と、高校までで行う、その前提となる幅広い基礎知識の習得は、本質的に連続したものなのです。

 問題は、基礎知識の習得は、高校でも大学でも、教員が所定の内容を一方的に教授し、学生はそれをそのまま覚えるという受け身の形式で行われることがほとんどなので、「どうしてそうなるのか」を学生が自分の頭で考えるという習慣がなかなか身につかないことにあります。

 自分の頭で考える習慣がない学生が「問題解決能力」を養う実践的な授業に参加すると、とたんに困惑します。苦しくてもなんとか自分で考えようとする学生はいいのですが、易きに流れる学生は、教員に何でも教えてもらおうとしたり、なんとなく他の学生のまねをしたり、本やインターネットで探した情報をそのまま自分の意見にしたりして、最後まで自分の頭で考えようとしません。後者のような学生が卒業後に後悔するはめになるのです。

 そこで、できるだけ早いうちから「どうしてそうなるのか」を自分の頭で考える習慣を身につけておくことが、大学での学修をスムーズに進める上で理想的です。

 アカデミクスでは、大手予備校に見られるような一方通行の講義形式ではなく、講師と生徒が双方向で話し合うことにより、「なぜそうなるのか」を生徒に考えさせる授業スタイルを取っており、自分の頭で考える習慣を自然に身につけることができると思います。

 同時に、目や耳からインプットされただけの情報は、分かった「つもり」になりやすいものですが、講師とのやりとりの中で生徒が口に出して表現することで、生徒が本当に理解できているかどうかを、講師のみならず生徒自身も確認することができる点でも優れていると思います。

 また、生徒の理解を定着させるという意味では、口頭でのアウトプットだけでなく、書かせることも効果的ですが、アカデミクスでは記述形式問題を中心に学習プログラムを組んでいる点も高く評価できます。

 アカデミクスのような、自分の頭で考えさせる授業スタイルと、インプットよりアウトプットを重視する学習システムは、基礎知識を確実に習得させ、問題解決能力の基本的な素養を自然に身につけさせることができるので、大学のより発展的な学修にスムーズに移行することができるだけでなく、大学入学後も自律的に学修を継続することが可能になると思います。

法科大学院 教授 久須本 かおり